Escape.8 洗礼
“俺が死ぬ頃には、この街は崩壊しているかも知れないと悟っていた。”
この街での記憶が再び蘇った。
跡部家に養子として、日本へ連れて行かれた俺は、
最後に空港にこっそりと見送りに来てくれた父親に、目をやった。
そこには、顔に傷を作った母親のふりをしていた男の顔も写っていた。
「ケイゴ・・・・」
俺の名前を声もなく呼んだ事に気が付いたが、
俺は新しい両親の手を振り切れなかった。
“けいご”という名前は、あの街にいた日本人青年から付けられたものだ。
それを知ったのは、日本で生活を始めてからだった。 「ケイゴは好きな子はできたの?」
街の中には、当然のごとく男児しかいない。
同性愛者の街と言われているだけに女児の姿は見えない。
ここの男児たちは、女性という存在すら知らない子供もいるが、
俺は時々、外から街の長が買ってくる雑誌に載っている
髪の長い、いつも見ている人間とは違う姿に虜になっていた。
普通、人間は男女の恋愛が普通だが、ここでは同性愛が普通なのだ。
その当時、俺は自分は可笑しいのかと、本気で悩んでいた。
「ううん、できないよ。
学校にも、家の近所にもいない・・・・」
「もしかして、この子が好きなんじゃないの?」
母親役をしていた人に雑誌の切り抜きを見つけられると、
俺は顔を真っ赤にして、それを奪い取ろうとした。
「ケイゴ、女の子を好きになる事は普通の事なんだよ?
ここには女の子はいないし、普通に男同士が結婚してるから、
変だと思ってるんだろ?」
「う・・・ん・・・」
切り抜きに写っている女の子は、真っ黒なストレートヘアーをしていた。
白人の女の子だったが、どこかアジア的な容姿をしていた。
「ケイゴは将来、ここを出て行くのかも知れないね。
そして、普通に幸せを手に入れて、綺麗な街で暮らすんだ。
こんな薄汚れた街なんかじゃなくってね」
綺麗な女性を思わせる容姿をしている人だったが、俺にとって
みれば、母親役をしていても、男性だった。
「ねぇ、ケイゴ。
もしも、この街を出たら、ここにいたって事は誰にも話しちゃダメだよ。
君の為にならないからね」
部屋を出ていった母親は、どこかで俺がこの街を出る事を
感じていたのかも知れない。
◆◆◆
「暴動だ!」
大きなサイレンの音と、人の怒る声が街中に響いていた。
マンションの壁は、硬い物で叩かれたのか、崩れ去っている所もあった。
「ケイゴ、外に逃げよう。
ここにいたら、死んでしまうかも知れないよ」
手を引かれた俺は、裏の通路から暴動を避けて街の外へと向かった。
昔の街の姿とは変わってしまった街に、涙を流した。
「この子を養子縁組してくれる、日本の夫婦を探してください」
3日後、俺は養子縁組を要請してくれる機関に連れてこられた。
父親と母親とは言えない為か、迷子と偽っていた。
身分証明のない俺を疑問に思ったのか、係りの人間は
俺の出生届けを探していた。
「実はこの子、難民の女から産まれた子なんです。
それで、この子の出生届は出されなかったんです。
迷子っていうのは嘘ですが、この子の母親を俺は知っています」
懸命の説得に納得したのか、俺は約半年後、旅行に来ていた跡部という
夫婦に養子縁組が決まった。
夫婦は子供ができず、悩んでいたそうだ。
親がいない俺を好都合と思ったのだろう、簡単に契約が成立された。
「ケイゴ、俺は行くけど大丈夫だよね?」
「平気だよ、でも二人は?
住む所はどうするの?」
「大丈夫、俺もアイツも今まで、誰にも気付かれずに生きてきたんだ」
空港で初めて自分のパスポートを見た時、俺はもう、“ケイゴ”ではなく、
跡部景吾なのだと思った。
「ケイゴ」
その後、俺は日本で普通の生活を送っていたが、
それから約10年後、運命の出会いをした。 |